より強力な機械、サスティナビリティへの新しい取組み、業界を一変させる発明など、1970年代はCaterpillarにとって期待を上回る時代となりました。チームの取組みは、グローバルで画期的なものでした。この驚くべき10年間を振り返ってみましょう。
1977年の夏、モンタナ州の住民の間で、世界最大のブルドーザの試験が州の西部で行われているという噂が広まっていました。やって来た見物人は、世界最大かつ最新で最も強力なトラクタである新しいCAT® D10に畏怖の念を抱きました。しかし、さらに印象的な点は、見えないところにありました。この強力な機械には、新しい設計コンセプトが採用されており、生産性が前身のCAT D9よりも50 %も向上しました。
この画期的な新しいドーザは、何百人ものCaterpillarの従業員が最善を尽くして6年間取り組んできたことの表れでした。この研究開発は1971年に開始されました。1973年に試作機による試験がPeoria Proving GroundとArizona Proving Groundで開始されました。イーストピオリア工場でパイロットモデルが製造され、1977年9月13日に最初の製品がようやく世界に発表されました。このストーリーの詳細については、こちらをご覧ください。
新しいD10には、エンジニアリングで最善を尽くしたことの表れである別の機能もありました。それは、新しい革新的なトライアングルトラック高位置スプロケットシステムです。このシステムは、土木業界に革命を起こしました。高位置スプロケットにより、機械の生産性や耐久性が高まるだけでなく、オペレータの乗り心地を大幅に滑らかにすることができます。現在では、中型および大型のCATブルドーザに標準装備されています。
しかし、D10だけが1970年代のCaterpillarの目立ったニュースであったわけではありません。この10年間における別の重要な製品として、1972年に販売開始された弊社初となる油圧ショベル225があります。この10年間で初めての出来事としては、アイオワ州ベッテンドーフでCaterpillarの最初の再生工場が操業を開始したことも挙げられます。これは、現在も続いている重要なサスティナビリティへの取組みの始まりと言えます。
1970 | Caterpillarの米国外での売上が初めて米国内を上回る。 |
1972 | Caterpillarが第1号油圧ショベル225を販売開始。 |
1972 | W.H. Franklinを取締役会長に選出。 |
1973 | アイオワ州ベッテンドーフでCaterpillar初の再生工場が操業開始。 |
1975 | W.L. Naumannを取締役会長に選出。 |
1977 | CaterpillarがD10ブルドーザを販売開始。 |
1977 | L.L. Morganを取締役会長に選出。 |
1979 | Caterpillarが塗装色を「ハイウェイイエロー」から新たな「Caterpillarイエロー」へ変更。 |
1973年、アイオワ州ベッテンドーフにあるCaterpillar初の再生施設の外には、「使い古したものや壊れたものがあればお持ちください。もう一度動くようにいたします」という内容の看板が掲げてあったと言われています。この看板は、CAT®ディーゼルエンジンについて述べたものでした。元々、寛大なトラックドライバは、120,000マイル程度走らせたら、エンジンを取り出して、別のエンジンを購入していました。
しかし、Wes Brackenなどの旧Caterpillar部品流通部門の従業員の革新的なアイデアのおかげで、1973年以降、オーナーは交換のために新しいCAT 1100または3100シリーズエンジンを購入しなくて済むようになりました。Caterpillarは、ベッテンドーフにある以前の特殊部品の施設で中古エンジンの再生を開始しました。
「今年になるまで、こうしたエンジンはCatディーラやいくつかの独立系再生業者によってオーバーホールされていました。弊社がエンジンを大量に再生することで、ディーラは最高品質のエンジンをより安価に提供できます。
それでも道路沿いにあるトラック工場を満足させることができない場合、古いエンジンと新品のエンジンを新品の3分の2より安い価格で交換することができます。
これが煤まみれの古いエンジンがピカピカの新しいエンジンに生まれ変わるベッテンドーフのストーリーです」とWes Brackenは説明してくれました。
Brackenは次のように説明してくれました。「今年になるまで、こうしたエンジンはCatディーラやいくつかの独立系再生業者によってオーバーホールされていました。エンジンを大量に再生することで、弊社はディーラに最高品質のエンジンをより安価に提供してもらうことができます。それでも道路沿いにあるトラック工場を満足させることができない場合、ディーラは新品のエンジンの3分の2より安い価格で提供することができます。」
ある日、Jimmy Wooは、あるテレビ番組でCaterpillar製機械が稼働している様子を見ました。それからまもなく、Wooは、Caterpillarが技術職およびエンジニアリング職の人材を必要としているという新聞広告を見ました。Wooは、テレビ番組で見た機械に触発されて、その仕事に応募して就職しました。
彼の夢は、「機械用途に関する重要な知識を習得して、それを地元のユーザと分け合うこと」でした。
Wooの夢は1975年に、Caterpillarが38台のパイプレイヤと交換部品の販売について中華人民共和国と初めて契約交渉を行ったときに叶いました。翌年、Wooは、北京で開催されたPeking FairにおいてCaterpillar製機械の展示の監督を務めました。この見本市には、中華人民共和国全土から参加者がやって来ました。産業およびテクノロジに関する日本の展示を見るために、大きな北京展示ホールに参加者が押し寄せました。
この17日間のイベントの最終日までに、200,000人を超える参加者が日本の卓越した技術および製造方法を示した700点に及ぶ製品および技法を見学しました。こうした展示品の1つに、Caterpillar Mitsubishi Ltd. (CM)の相模事業所で製造されたCaterpillar製品がありました。
Wooは、この展示をきっかけとする商談に自分で対応しました。彼は、Caterpillarの展示にあったすべての機械の販売交渉に加えて、CAT D7を2台追加する中国政府との交渉も行いました。
「建設部門に所属する来場者の多くは、D8トラクタの初期モデルについてよく知っていました。彼らの目には、新しいCaterpillar製機械が斬新に映ったようでした。多くの質問と賞賛の言葉が寄せられました」とWooは述べています。
Wooと彼のチームは、このイベントに向けて1年以上前から計画する必要がありました。このイベントは、Wooのキャリアにおいて最も輝かしい出来事の1つです。
「ここで終わりたくない。経験が増えるにつれて昇進したい」というのが、1971年にモートン部品施設で人事選抜担当者から店舗責任者に異動した従業員が見せた姿勢でした。この従業員がWinifred Barnardです。モートンで初めてとなる女性の責任者であり、彼女のような従業員はそれまでCaterpillarのどの拠点にもいなかったでしょう。
「自分も他の人と同じように仕事ができることを上司にいつも示していたように思います。上司を観察して、上司が仕事について知っていることをすべて知ろうとしました。以前の役職ではたくさんの調整業務があったので、管理者や責任者と一緒によく働いていました」とBarnardは述べています。
この勤続25年のベテラン従業員が管理職を手にした後、考え方を変えなければならないことに気付きました。 それは、「以前は自分がいい仕事を行っていればよかったが、これからは他の人がやる気を出すように励まさなければならない」ということでした。
Barnardが人事選抜担当者として10年間勤務した後、責任者の役職を手にするうえで役に立ったのは、彼女が持っていた知識と情熱でした。「他の誰よりも上手に仕事をしようとしただけです。1日の終わりによく頑張ったと思えないと満足できません」と彼女は述べています。