1960年代

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ダム建設現場で作業するドーザ。

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パナマ運河で作業するドーザおよびスクレーパ(1962年頃)。

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H.S. Eberhardを取締役会長に選出。

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1964年のPower Paradeの映像はありませんが、1972年に行われた豪華なショーのクリップをご覧ください。

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W. Blackieを取締役会長に選出。

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1967年に撮影された新しい本社の写真。

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NASAの追尾基地で使用されているCaterpillarディーゼルエンジンセットについて説明した新聞記事の切抜き。

1960年代のCaterpillar
ダム建設現場で作業するドーザ。
機械
パナマ運河で作業するドーザおよびスクレーパ(1962年頃)。
H.S. Eberhardを取締役会長に選出。
1964年のPower Paradeの映像はありませんが、1972年に行われた豪華なショーのクリップをご覧ください。
W. Blackieを取締役会長に選出。
1967年に撮影された新しい本社の写真。
NASAの追尾基地で使用されているCaterpillarディーゼルエンジンセットについて説明した新聞記事の切抜き。

Caterpillarは、1920年代に設立されてから40年後の1967年に最初のコーポレートシンボルを導入しました。このシンボルは、単なるデザインマーク以上のものでした。 

当時CaterpillarのプレジデントであったBill Franklinが述べたように、「目的意識と、弊社の重要な特徴である変化と改善のコンセプトを伝えています。」

変化と改善。これら2つの特徴は、創業以来弊社のDNAの一部となってきましたが、1960年代には、エンジニアリング上の素晴らしいブレークスルー、驚くような新製品、また熱意にあふれた従業員によって一層推し進められました。 すべては、お客様が作業現場で目標を達成できるようにするという1つの目的のために行われました。 

ブレークスルーは大きなものでした。1965年には、Caterpillarのエンジニアにより開発された新しい溶接プロセスを使用した慣性溶接機が、Caterpillarによってさまざまな産業用途向けに初めて販売されました。当時、「溶接分野におけるブレークスルー」として歓迎された慣性溶接では、多くの場合、他の方法で溶接することが実際的ではなかった、同種と異種の両方の材料を融合することができました。

この10年間の主力製品には、1962年に販売開始された弊社の最初のダンプトラック769が含まれます。しかし、弊社のお客様がそれらの機械を使って行った見事なプロジェクトを考えると、弊社の偉業も霞んでみえます。それらのプロジェクトでは、新旧織り交ぜて弊社の製品とサービスの真価が問われました。パキスタンのマングラダムの建設開始には、500台を超えるCaterpillar製機械が貢献しました。パナマ運河の拡幅工事でも、複数の機械が貢献しました。また、月へ向かうアポロ11号計画では、Caterpillar製エンジンが電力を供給しました。 

この10年の詳細については、こちらのビデオをご覧ください。また、Caterpillarに貢献した素晴らしい面々については、以下をご覧ください。

1961 500台を超えるCaterpillar製機械が、パキスタンのマングラダムの建設開始に貢献。
1962 Caterpillarが第1号ダンプトラック769を販売開始。 
1962 複数のCaterpillar製機械がパナマ運河の拡幅工事に貢献。 
1962 H.S. Eberhardを取締役会長に選出。 
1964 Caterpillarの従業員とその家族が、最初のPower Parade(製品デモンストレーション)に参加。
1966 W. Blackieを取締役会長に選出。
1967 イリノイ州ピオリアに、Caterpillarの世界本社ビルを新設。
1969 Caterpillar製エンジンが月へ向かうアポロ11号計画で電力を供給。

人物紹介

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Rubens Almeida
革新者 - Rubens Almeidaの紹介

Rubens Almeidaは、ブラジルのCaterpillarの部品およびサービスの分野における革新者でした。彼は、1966年にCaterpillarで働き始め、昼間はCaterpillarのサービスを販売し、夜間は書類を作成する働き者でした。現地のCatディーラは、彼のことを感じが良く、外交的かつ活動的で、駆け引きがうまく、知的であると言っていました。 

1968年、Almeidaは、ブラジル全国の部品販売トレーニングおよびプロモーションの責任者になりました。当時、56人しかいなかった全世界を担当するCaterpillarの部品販売担当者の1人であったRubensは、ディーラが以下の4つの非常に重要なことを行うのを支援しました。

  • 交換部品取引を獲得する
  • 優れた部品サービスを提供して取引を維持する
  • ディーラのサービス施設を商業化する
  • 安定して利益を上げる

Almeidaの担当地域には、リオデジャネイロ、ミナスジェライス、バイーア、ゴイアス、セルジペ、エスピリトサント、グアナバラ、ブラジリア連邦直轄区(ブラジルの首都)という、ブラジル東部のいくつかの州にあるディーラが含まれていました。担当地域は、西ヨーロッパと同じくらい広大でした。彼は、1か月に15日間は出張に出ていました。ほとんどの場合、距離があったので飛行機で移動しましたが、お客様を訪問するときは、ジープ、ボート、徒歩で移動することもありました。

Almeidaは、特定の新しいテクニックを勧めることで、ディーラの部品マネージャが販売促進および従業員トレーニングの仕事をもっとうまくこなせるように助けることができると信じていました。「一番重要なのは駆け引きのうまさでした。私が生まれる前から部品を販売しているマネージャの場合は特にそうでした」とAlmeidaは述べていました。

Almeidaは続けて、「部品販売担当者の役割は時代とともに変化しています。15年前であれば、在庫管理、オフィスの効率、倉庫のことだけを心配していたでしょう」とも述べました。

今日と同じように、Almeidaは、部品およびサービスを宣伝することの価値をディーラに示すことが仕事の重要な部分になっていることを認めていました。1968年、Almeidaは、カスタムトラックサービスの価値を宣伝するという大きな成果を挙げました。この新しいトラック再生サービスは、採算が取れることが実証されただけでなく、お客様にとってディーラの価値を高めることにもなりました。

「優れた部品と修理サービスの両方を提供できるディーラには、販売において競合他社を上回る真の優位性があります。 部品ビジネスは、Caterpillarにとってもディーラにとっても採算が見込めます。自動車業界がそうであったように、もし3分の2の仕事が失われたなら、仕事の仕方についての概念全体を変える必要があるのかもしれません」とAlmeidaは述べていました。

Rubens Almeidaは、機械の寿命にわたってお客様にサービスを提供することが重要であると信じていました。現在、弊社は優れた部品およびサービスを提供することでその責任を果たしています。 

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Carl Maxwell
製作者 - Carl Maxwellの紹介

1967年、Caterpillarの伝説のエンジニアであるCarl Maxwellは、勤続40年の表彰を受けました。彼がCaterpillarで過ごした時間は、ディーゼルエンジンと密接な関係がありました。Maxwellはこう語っています。「私の相棒は最初からディーゼルでした。」 

Maxwellは、17歳のときに、デパートの郵便係の仕事を辞めて、Caterpillarのサンレアンドロ工場で機械工の見習いとなりました。弊社に勤めてから最初の数年間は、ガソリンエンジン、特にキャブレタとマニホールドの研究に携わりました。「私は内燃機関に目がありません」とMaxwellは述べていました。

Maxwellがサンレアンドロ試験場で働いていたときに、ちょうどCaterpillarがディーゼルエンジンの開発を始め、そのことが彼のキャリアを伸ばすのに役立ちました。「私たちはディーゼルエンジンは素晴らしいと思いましたが、ディーゼルエンジンは単なる魅力的な脇役に過ぎず、ガソリンエンジンに代わるものはないと思っている人たちもいました。しかし、1940年までにすべてのCAT機械にディーゼルエンジンが搭載されるようになりました。」

1938年、Maxwellは、ディーゼルエンジンシリンダ試験場を指揮するために、イリノイ州イーストピオリアに引っ越しました。その後、ディーゼルエンジン研究のスタッフエンジニアに指名され、そしてアシスタントディレクタに指名されました。 

1960年代には、エンジニアリングおよび研究担当バイスプレジデントのアシスタントを務めました。Maxwellは、動力分野の他のテクノロジの発展の経過を追うことにも熱心でしたが、主な関心事はディーゼルのままでした。1960年代、Maxwellは、全社的なディーゼルエンジンプログラムと密接に連携し、エンジニアリングと研究の両方の進展を見守りました。

自分の業績を振り返ってMaxwellが唯一口にしたのは次の言葉でした。「Caterpillarで過ごした40年間は素晴らしいものでした。1960年代が画期的なときになることを願っています。」

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Elda Howe
開拓者 - Elda Howeの紹介

Elda Howeは、多くの人が職場を「男の世界」と見ていた1960年代の女性です。1967年、Howeは、Caterpillarに就職し、ラジアルボール盤やフライス盤の作業を行いました。Howeはよく頑張り、しばらく経った1969年にトレーニング責任者は2年間の機械工場トレーニングプログラムに参加するよう彼女に勧めました。Howeはそれに申し込んで受理されました。その後のことは言うまでもないでしょう。「女性が男性のようにできない理由が見つかりません」とHoweは述べていました。

教室でも工場でも男性に囲まれながら、Howeは2年間の機械工場トレーニングプログラムに参加した最初の女性となりました。それは画期的な偉業でした。Howeのインストラクターは、「クラスに女性がいることに騒ぐ人は誰もいませんでした。彼女はただの研修生の1人で、男性と同じように学ぶためにここにいるのです」と述べました。

Howeは、プログラムで優秀な成績を収め、クラストップの成績で1970年5月に卒業しました。

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Bill Franklin
世界変革者 - Bill Franklinの紹介

1967年、CaterpillarのプレジデントであったWilliam "Bill" Franklinは、Caterpillarにおける大きな変化について発表しました。それはかなり前から温めていたアイデアでしたが、彼はようやくCaterpillarがその歴史上初めてコーポレートシンボルを採用したことを世界に知らせるための機が熟したと思うようになりました。通称「C-Block」と呼ばれるこのシンボルは、世界中の弊社の施設、製品および部品に付けられました。このシンボルは、弊社を特定するために、さまざまな方法およびサイズで、建物、レターヘッド、ラベル、書類などに用いられるだろうとFranklinは言いました。

「古代から、シンボルはわかりやすくて覚えやすい象徴として用いられてきました。シンボルを最初に用いたのは、初期の職人、国王、修道会などです。」

Franklinは次のように言っていました。「このシンボルは、140か国を超える国々でCaterpillarとその製品を特定するために用いられることになります。このシンボルは、簡単に認識できる共通の象徴として機能し、言語の違いによる認識および意思疎通の障壁を克服することでしょう。」

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部品およびサービス
部品およびサービス

1960年頃 – 100年以上にわたって優れた部品およびサービスが弊社のDNAの一部となってきました。これは、Caterpillarの防錆剤のカタログの表紙です。

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ブランドの構築
ブランドの構築

1967年頃 - Caterpillarは、最初のコーポレートシンボルを7番目の商標デザインとともに導入しました。

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アフリカの鉄道
アフリカの鉄道

1965年頃 - CAT®エンジンがアフリカで機関車にどのように動力を供給していたかご覧ください。

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1965年の世界規模のディーラネットワーク

1965年の世界規模のディーラネットワーク

1965年頃 - CAT®の世界規模のディーラネットワークについて詳細をご確認ください。ディーラネットワークは、機械を製造する人と現場で機械を使用する人との間の不可欠なつながりを構築します。

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