1950年代にCaterpillarが農業機械から土木機械に移行したとき、それを記念して玩具メーカーのREBELLがプラスチック製の玩具を作りました。今日の弊社をいまだに特徴づけているこの移行を知らせる面白い方法でした。
1950年代のお客様のプロジェクトでは、頑丈な機械とともに優れた現地サービスが必要とされており、弊社はそれに応える用意ができていました。
1951年、弊社は、さまざまな土木用途向けに設計された第1号の自走式ホイールトラクタスクレーパの販売を開始しました。それから間もない1952年には、開墾、掘削、仕上げ整地、トラックへの積込み、斜面での作業などに使用可能な頑丈な機械である、新しいNo.6ショベル(現在のトラックローダ)を送り出しました。過酷な作業、起伏の多い地面、狭いスペース用に設計されたNo.6ショベルによって、お客様は時間とコストを節約できました。
そのわずか2年後、弊社はD9トラクタの販売を開始しました。最初のD9生産モデルの組立てを監督したWalt Dunbarは、当時を懐かしく振り返って、「最初のD9は本当に素晴らしい機械でした。その設計方法、計画方法、組立て方法は、どれも他では見たことがありません」と語っています。Dunbarのストーリーについては、下記をご覧ください。
1950年代に起こった別の重要な出来事として、弊社は、海外子会社第1号を英国に設立し、海外に進出しました。1950年代の終わりまでには、ヨーロッパ、オーストラリア、南米の各拠点に製造を拡大しました。お客様は、近代的なブラジルの構築から南極大陸の冷たい奥地の探査まで、弊社の製品を使用して世界中で限界を打ち破りました(豆知識: CAT®ブルドーザは南極大陸で使用された最初のトラクタです)。
この10年の詳細については、こちらのビデオをご覧ください。また、Caterpillarに貢献した素晴らしい面々については、以下をご覧ください。
1950 | Caterpillarが海外子会社第1号Caterpillar Tractor Co. Ltd.をイングランドに設立。 |
1950 | Caterpillarが第1号自走式ホイールトラクタスクレーパを販売開始。 |
1951 | H.H. Fairを取締役会長に選出。 |
1952 | Caterpillarが第1号統合型トラックローダを販売開始。 |
1952 | CaterpillarのPeoria Cats(優勝バスケットボールチーム)のメンバーが米国オリンピックバスケットボールチームに参加し、金メダルを獲得。 |
1954 | CaterpillarがD9トラクタを販売開始。 |
1954 | L.B. Neumillerを取締役会長に選出。 |
1955 | Caterpillarが、ディープフリーズ作戦専用に設計した機械を米国政府に供給。 |
Patsy Millerは、「Designing Woman(女性設計士)」として知られていました。彼女は、米国にほんの数人しかいない女性の土木エンジニアの1人で、Caterpillarで唯一の女性のスタッフエンジニアでした。Millerは、内装構造に関連するエンジニアリング業務を取りしきり、会社の財産マップや統計記録を管理しました。また、イリノイ州イーストピオリアにある施設のメンテナンスや鉄骨構造用の傾斜や段差の立面図を担当しました。
画像は、1950年代の従業員向けニュースレターに載せられたMillerのプロフィールです。
William "Bill" Blackieは、1906年にスコットランドのグラスゴーで誕生しました。Blackieは、会計学、事業法、経済学を勉強した後、公認会計士の見習いとして5年間過ごし、1930年に彼自身も会計士になりました。その同じ年に米国に移動して、全国的に有名な会計事務所に就職しました。その後、1939年にCaterpillarに経理部長として入社しました。Blackieは、1944年にバイスプレジデント、1954年にエグゼクティブバイスプレジデント、1958年に取締役、1962年にプレジデントにそれぞれ選任されました。1966年、Blackieは弊社の5代目の取締役会長に就任しました。
彼が残した最大の遺産の1つは、Caterpillarの真の多国籍企業への変革です。第二次世界大戦前、Caterpillar製機械がイリノイ州ピオリアから世界中のお客様にどのように輸出されていたか彼自身の言葉でお聞きください。今こそCaterpillarは「販売、製造、雇用を複数の国で行う」べきであるというのがBlackieの考えでした。しかし、それだけではそのような経営上の重大な転換は起きませんでした。この進化について、Blackieの論法はとても戦略的でした。「Caterpillarは、多国籍企業になるという目的でこの変革を行ったのではありません。 まず、優位にあるが、この先競合他社からの挑戦を受ける市場を守り、米国からでは拡大することが難しいと思われる市場を拡大することが目的でした。 多国籍企業になることで、Caterpillarは世界的な競争力を手に入れました」とBlackieは述べています。1970年までには、弊社の歴史上初めて米国外での売上が米国内の売上を上回りました。
献身的なリーダーでもあり熱心な戦略家でもあるBlackieは、従業員にとってのメンターでもあり真の世界市民でもありました。Blackieは、米国だけではなく全世界においてCaterpillarの従業員であるとはどういうことかについてよく話していました。あるときには次のように言っています。「弊社は、どこにいたとしても、信念として、仕事を極めたいと思っている人材を必要としています。 Caterpillarの成功は、従業員の働きと能力に基づいています。そのような人材をCaterpillar従業員と呼んでいます。」
Caterpillarの鋳造工場は、設計図を鋳型やコアに変え、鋳型やコアをグレーの鋳鉄部品に変える場所です。 こうした鋳鉄部品を組み立てることで、頑丈な鉄製のエンジンボディとなります。1950年代、イーストピオリアにあった鋳造工場では、男女混合の専門チームを擁しており、鉄製部品の形を決め、その部品に強度と耐久性を加えることに取り組んでいました。
空気はつり工であったWorthen Hollisがこの有能な従業員グループに参加したのは1946年のことです。1953年、彼は鋳造工場での仕事の様子について話すためにCaterpillarの社内誌「News & Views」の編集者と対談しました。
鋳型に鉄を流し込んだだけでは、鋳鉄部品のようなものは作れても、鋳鉄部品は完成しません。 鋳鉄部品には多くの砂や鋳バリが付いています。鋳造工場ではそれらを取り除いて初めて完成品と呼びます。クリーニング室でそうした鋳鉄部品を完成させるのが私たちの仕事です。私は、空気はつり工として、チッパ(エアハンマー)を使用して鋳鉄部品の鋳バリやで粗い部分を削り落としています。
鋳鉄部品は、スインググラインダとサンドブラスタの工程を経て私たちのところに来ます。スインググラインダ工は、鋳型を振り落としたばかりの鋳鉄部品を引き受けて、これぞ鋳バリと呼べる大きな粗い鋳バリを削り落とします。
サンドブラスティング室では、サンドブラスト工が鋳鉄部品をできるだけきれいにします。エアガンを使用して鋼製のペレットを鋳鉄部品に吹き付け、多くのゴミや粗い部分を叩き落とします。
それでも、細かな粗い部分や小さな鋳バリが鋳鉄部品にはたくさんあります。そこで私の出番というわけです。
鋳鉄部品を受け取ったら、私たちが使用しているチッパであるハンマーチゼルを鋳鉄部品に当てて、鋳鉄部品をできるだけ滑らかにします。多くの金属片がそこら中に飛び散るため、革製の手袋、エプロン、キャンバス袖、ゴム加工された分厚いミットを装着しています。安全メガネは何度となく私の目を救ってくれました。
小型の鋳鉄部品のために、ハンドチゼルを使用して鋳バリを削り落とすハンドはつり工もいます。どちらのはつり工も同じような作業を行います。ただサイズが異なるだけです。
私たちの作業が完了すると、鋳鉄部品はもう一度サンドブラスト工に渡されて滑らかに仕上げられます。その後、鋳鉄部品の仕上がりがくまなく点検されます。
これらの工程が完了したら、鋳鉄部品を鋳造工場から送り出すことができます。鋳鉄部品は、塗装のために塗装工場に送られます。その後それほどかからず、トラクタの部品となります。
1940年からCaterpillarに勤めているWalt Dunbarは、それまでCaterpillar製品ラインにおける数々のイノベーションを見てきましたが、自らが製作を手伝おうとしていた巨大な土木機械に匹敵するものはありませんでした。1955年、Dunbarは、イーストピオリアにあるBuilding LLで組立ておよび試験の監督者を務めていました。その年の5月、DunbarはCaterpillarブルドーザの開発を監督するよう求められました。それは、1931年に最初のディーゼル機械が発売されて以来、最も重要な開発となりました。彼は、第1号のD9生産モデルの組立てについて監督責任を個人的に負うことになりました。
D9は、29トンの比類のない巨大な機械で、最も強力なドーザでした。また、DunbarのようなCaterpillarの従業員による長年にわたる大型トラクタの研究開発の成果でした。 彼のチームが「足取りの軽い巨人」と表現した新しいD9は、他のトラクタでは過酷すぎたり起伏がありすぎたりする現場で使用されました。D9は特に、一般土木、伐採、パイプ敷設、採掘、砕石など、世界のほぼすべての過酷なブルドーザ用途に使用できるように作られました。
D9に見られる主要なイノベーションの1つは、ディーゼルエンジンにターボチャージャを使用したことです。排気ガスを動力源にしたターボチャージャによって、馬力が増加しただけでなく、運転時の騒音が抑えられたため、オペレータの快適性が向上しました。
第1号のD9が生産ラインを離れてお客様のもとに送られると、Dunbarと彼のチームはとても誇らしく思うとともに、大きな達成感を感じました。その日は、すべてのCaterpillarの従業員が同じ気持ちであったに違いありません。バイスプレジデントのChuck Woodleyは、チームへのお祝いの言葉として、「Waltと、D9の生産に関わったすべての工場の全Caterpillar従業員の皆さんに対して、心から賞賛の意を表したいと思います。今回の開発および生産全体を通じて見られた円滑な調整と協力は、Caterpillarの素晴らしい伝統を再認識させてくれました」と述べました。
DunbarのCaterpillarでの経歴は、スコットランドのグラスゴー、ウィスコンシン州ミルウォーキー、イリノイ州モスビル、アイオワ州ダベンポートなどの各都市でのさらに多くの経歴へとつながりました。Dunbarは弊社に48年間勤めた後、1988年に退職しました。すべてが終わったときにDunbarが語ったのは、Caterpillar D9で歴史を作ったときのことは決して忘れないというものでした。