1940年代に入り、Caterpillarは創業15周年を迎えました。世界基準からすればまだ新興企業でしたが、Caterpillarはすでに信頼できる(成長している)製品と最上級のカスタマサポート、そして象徴的なカラーで知られていました。
1940年代には、さらに多くの初めてのことが待ち受けていました。世界は変化していたのです。それに合わせて、Caterpillarも変化しました。実際、弊社は、この年代に入るとすぐに、有名な製品の1つであるCaterpillar初のホイールトラクタとそれに取り付けるワゴン製品シリーズを販売開始しました。
この新しく販売開始されたトラクタは、その他のCaterpillar製品と同様に、第二次世界大戦中、同盟国を支援しました。この戦争は、特に米国において、労働力に大きな変化をもたらしました。特に軍需生産に関連した業界で、かつてないほどの数の米国人女性が労働力に加わりました。Caterpillarのような企業は、戦争で戦うために送り込まれた男性の代わりに、大勢の女性労働者を採用しました。工場では、女性が男性と同じ位置を占めるようになりました。戦争が始まってから1年後、Caterpillarの従業員は11,000人から20,000人以上に増加しました。1943年だけでも、3,000人の女性が工場での仕事に就いていました。
1940年代に入り、Caterpillarは創業15周年を迎えました。世界基準からすればまだ新興企業でしたが、Caterpillarはすでに信頼できる(成長している)製品と最上級のカスタマサポート、そして象徴的なカラーで知られていました。
1940年代には、さらに多くの初めてのことが待ち受けていました。世界は変化していたのです。それに合わせて、Caterpillarも変化しました。実際、弊社は、この年代に入るとすぐに、有名な製品の1つであるCaterpillar初のホイールトラクタとそれに取り付けるワゴン製品シリーズを販売開始しました。
この新しく販売開始されたトラクタは、その他のCaterpillar製品と同様に、第二次世界大戦中、同盟国を支援しました。この戦争は、特に米国において、労働力に大きな変化をもたらしました。特に軍需生産に関連した業界で、かつてないほどの数の米国人女性が労働力に加わりました。Caterpillarのような企業は、戦争で戦うために送り込まれた男性の代わりに、大勢の女性労働者を採用しました。工場では、女性が男性と同じ位置を占めるようになりました。戦争が始まってから1年後、Caterpillarの従業員は11,000人から20,000人以上に増加しました。1943年だけでも、3,000人の女性が工場での仕事に就いていました。
女性が工場で働く障壁が打ち破られたことは、職場での平等に至る長い道のりの最初の一歩に過ぎませんでした。20世紀後半には、Caterpillarの先駆的な女性たちが戦争前には就くことができなかった役職で成功を手にしました。
20世紀が進むにつれて、世界各地で新しいインフラストラクチャが建設され、Caterpillarはお客様を支援するためにさらに多くの製品を設計・製造するようになりました。1940年代中頃、Caterpillarは、どちらも社内で設計・製造した最初のブルドーザブレードとプルタイプスクレーパを販売開始しました。これらの新しい製品は、お客様によって、他の多くの既存製品と一緒に、世界中の主要なプロジェクト(全米の7万マイルに及ぶハイウェイの建設やインドのバークラダムの建設など)に使用されました。
戦後、DW10はCaterpillarが第二次世界大戦後に初めて発売した新製品の1つであり、有名なCaterpillarブルドーザブレードは1945年に販売開始されました。
この10年の詳細については、こちらのビデオをご覧ください。また、Caterpillarに貢献した素晴らしい面々については、以下をご覧ください。
1941 | Caterpillarが、第1号ホイールトラクタをそれに取り付けるワゴン製品シリーズとともに販売開始。 |
1941 | 第二次世界大戦中、Caterpillarの製品は同盟国を支援。 |
1944 | Caterpillar製機械が、全米の7万マイルに及ぶハイウェイの建設開始に貢献。 |
1945 | Caterpillarが社内で設計・製造した第1号ブルドーザブレードを販売開始。 |
1946 | Caterpillarが社内で設計・製造した第1号プルタイプスクレーパを販売開始。 |
1948 | Caterpillar製機械がインドのバークラダムの建設開始に貢献。 |
Caterpillarの前身の会社の1つで速記者としてキャリアをスタートさせたLouis Neumillerは、1941年に取締役会によって弊社のプレジデントに選出されました。Neumillerは、戦争に備えた総動員体制の真っ只中、会社を引き継ぎました。
1941年12月に戦争が米国に及ぶと、米国政府はCaterpillarに対してそれまでの実績を上回るレベルまで増産するように依頼しました。それは極めて野心的な目標でしたが、Neumillerの指揮の下、Caterpillarはその難局を乗り越えました。
1942年から1945年までの期間、Caterpillarは、週7日稼働し、従業員を倍増させ、研究、鋳造工場、組立てラインに女性を配属しました。また、特殊な製品を製造し、志願兵を訓練および後援し、軍のために約51,000台のブルドーザを製造しました。Caterpillar製機械は、世界中に送られて活躍し、南極大陸を除くすべての大陸で米国およびその同盟国を支援しました。
戦後、Caterpillar製機械とそのメンテナンス部品は、戦争で荒廃したヨーロッパ、北米、アジアを再建するために使用されました。Caterpillarの場合、戦後の世界的な販売不振はありませんでした。
Neumillerは、その後、1954年に取締役会長になりました。Neumillerは、弊社に47年間勤続した後、1962年に退職しました。
Henry Warfieldは当初、1942年にCaterpillarによってイーストピオリア鋳造工場で採用されました。彼の仕事は、クリーニング室で鋳型を研磨して滑らかに仕上げることでした。
1943年、彼は陸軍上等兵Henry M. Warfieldになりました。満面の笑みを浮かべる兵士として知られていた彼は、コロラド州ラフンタにある基礎訓練施設に送られました。兵役が終わると、Warfieldは鋳造工場で働くために戻って来ました。兵役期間は、Caterpillarでの勤務期間とみされました。
1959年、Peoria Community Chest and Councilの理事に選出されると、Warfieldはコミュニティに関わるようになりました。Community Chestの使命は、大変な人生を送っている職場の同僚を助けることでした。
Warfieldには、政治家の資質がありました。彼は、1961年にピオリア市の市会議員として民主党指名を勝ち取りました。さらに地元の自動車労働組合(UAW、United Auto Workers)の執行委員会で労働組合のリーダーとなりました。
1974年、Caterpillarと地元のUAWはどちらも、不動産取引に関わるすべての当事者に適用される州公正住宅法の可決を支援しました。この法案では、人種、信条、皮膚の色、または家系のみを理由として財産の販売または賃貸を拒否することは法律違反とされていました。CaterpillarとUAWは、イリノイ州議会議事堂において州議会に対してこの法案の可決を直接支持しました。Warfieldは、Caterpillarと地元の組合を代表するCaterpillarの従業員の1人に過ぎませんでした。Warfieldは、会社と組合の双方が公正住宅法案を支持しており、それを支援するために一緒に立ち上がったことを議会で明確にしました。
Warfieldはもう弊社の従業員ではありませんが、弊社は彼の尽力に感謝しています。
Caterpillarの女性従業員は、男性従業員と並んで、生産および組立てのあらゆる作業を行いました。アセチレン溶接工としてその質の高い仕事が何度も表彰されたDoris Porzeliusは、そうした多くの女性従業員の1人に過ぎません。購入部門に雇用されたVirginia Spaldingは、工場の効率を改善する提案に対して労使委員会から賞を送られた最初の女性従業員です。他の女性従業員も、榴弾砲カートリッジ、ラジアルタンクエンジン、ブルドーザ、発電装置、モータグレーダを生産するために働きました。
Olive Pinosは、イーストピオリアのBuilding Wにある研究所で働く最初の女性となりました。彼女は、計算尺のエキスパートであったと言われており、最上級の設計図を作成しました。仕事は非常に楽しく、同僚は「大人数の男子同級生」であると彼女は言っていました。
Lois Gartonは、オクラホマ大学で化学の学位を取得した後、Caterpillar初の女性化学者となりました。彼女は、最初はイーストピオリアで、その後はモスビルの技術センターで、研究開発に携わりました。ユーモアのある彼女は、ダイヤモンドが本物であるかどうか確認する新しい試験方法を開発したと同僚に触れ回ったことがあります。ダイヤモンドをドライアイスに押し当てると特徴的な音がするが、人工ダイヤモンドはしないそうです。彼女は、試験するためにダイヤモンドを持って来るようにすべての新婦に言っていました。
Robert "Bob" Eckhartは、初期の多くの従業員と同じように、弊社に勤める中でさまざまな歴史的瞬間に立ち会いました。Eckhartは、1917年10月12日にイリノイ州ピオリアで生まれ、1940年にCaterpillarに入社してイーストピオリア工場で働き始めました。1941年に米国が第二次世界大戦に参戦すると、Caterpillarはすぐに重要な企業として認識されるようになりました。Caterpillarが米国政府によって設定された挑戦的な生産要件を満たすためには、すべてのプロセスの効率を最大化する必要がありました。
彼の言葉を借りると、「機械を多く生産すれば、それだけ命を救うことができる」とEckhartは信じていました。1942年、彼は、仕事をもっと効率的に行う方法をいくつか思い付いたことを上司に伝えました。当時、機械修理工であった彼は、ドリルヘッド自体を取り外すことなく、複数のドリルヘッドからスピンドルブッシュを取り外すためのツールを提案しました。この革新的なアイデアによって、そのプロセスの所要時間が50 %と大幅に短縮されました。これにより、Eckhartは戦争への取組みを支援する重要な提案に対して軍需生産委員会から表彰された4人のCaterpillarの従業員の1人となりました。
Eckhartは、戦争が終わった後も、長い間Caterpillarにとどまり、40年間勤続した後、1980年に退社しました。彼は、機械修理工として勤務しただけでなく、サービス部門のインストラクタやコピーライターとしても働きました。また、弊社の機械の多くの整備解説書を書きました。